お久しぶりです。long time no seeです、ほんとに。
いつもは研究室での生活について思ったことを綴っていましたが、今回は番外編。
表題のことについての所感を語弊を恐れずに書き残します、今後の人生においてとても大事になると思ったので。
みなさんの周りには、所謂'障害を持った方'はいらっしゃるでしょうか。(個人的にこうした呼び方は単なる決めつけのような気がして嫌いですけど)
私にはいます。発達障害を持った方がいて、またコロナ前ですけど特別支援学校に通学する生徒さんとも接する機会もありました。
どの生徒さんも純粋で感情豊か、人懐っこいなという印象を受けました。何というか、とても眩しかったです。
こうした知的障害や身体的な障害をお持ちのアスリートによる世界的大会、パラリンピック。
私はテニス、バスケ、ラグビー、陸上、ゴールボールを主に観たのですが、どの競技も固唾を呑んでしまいました。
どの競技も白熱して見応えがあり、一観客としてはとても面白かったです。
と同時に、ふと思ったんですよね。
この人たちのどこが不自由なんだろうと、選手はコート中を自由に動き回り何も不便そうではない。
障害者と一括りにされてしまったのは、今の社会が健常人にfitしているだけで。そこに障害を感じるであろうと決めつけられた人、或いはそう感じる人がそのように一括りにされてしまったんだなあと。
社会的弱者という言葉も同じで (括りは少し広くなりますが)。そもそも強弱というのは比較の問題であり、今回の場合、社会生活の中で誰が強者になるのか弱者になるのかはcase by case。弱者だと決めつけられてしまった人々をこうして一括りにして呼んでいるだけなんだなあと。
括りを作ることで制度的に簡便化することができるのかもしれないし、そうした方々がより多くの支援を必要とすることは事実だと感じる部分もあるので、単純に善し悪しを言える事ではないけれど、言葉だけでも何とかならないのでしょうか。
強弱の話で言うと、所謂社会的弱者と括られる方でも、誰にも負けない'強み'を持っていることは事実です。
それはその人の絶対的な個性でもある。
特別支援学校の生徒さん達と接して、皆さんそうした個性をそれぞれ持っているなと感じました。
そう言った意味でもやはり弱者というどうなんだろうと思います。
特別支援学校は高校に相当するのですが、そんな生徒さん達のほとんどは卒業すると就職や就労支援施設等にいかれます。
(ここからは発達障害者の一身内がするcase study likeな話になりますが)
発達障害を持つ方は身体的な年齢よりも精神的な年齢が未熟な傾向にあります。にも関わらず弱冠18歳で就職。
このような障害者雇用制度、本当に彼彼女らに合った制度なのでしょうか。(自治体にもよるかもしれません。)
精神的な成熟が追いつかないまま就職、就職先は障害者雇用に理解があるか分からない上に社会的責務というプレッシャー、会社によっては評価法は減点方式。
私は、発達障害の方が就職前にメンタルトレーニングを受けることは必須だと思いますし、正直評価を減点方式にされてしまってはお手上げだと思います。すぐに会社のお荷物とみなされてしまいます。
はっきり言ってそんな評価法をする会社は障害者雇用に理解があるとも思えないですし、障害者を理解しているとも思えません。国から通達されているから雇っているだけと言わんばかりです。
彼彼女らの個性は強みです。強みを活かしてこそです。出来ないことがより多くあることは事実だと思いますが、時間はかかってもトレーニングすれば克服できますし、出来ないことを受け入れつつ強みを引き出してあげて彼彼女らは輝くのです。
少なくとも私には、こうした制度や会社が彼彼女らに適しているか、強いては理解があるかは疑問です。
こうした話、何も障害者雇用だけではなくて、今話題の多様性にもつながると思うんですよね。
誰でも持つ強みと弱み、それは千差万別。
そして'その人'の強みも弱みも理解して受け入れる。尊重する。
仕事における多様性ってなんでしょうね。
私は'その人'と真剣に向き合った上での適材適所だと思うんですよね、組織自体は元々多様な人々の集まりだと思いますし。
'その人'が出来ることと出来ないことを鑑みる、そして成長を促す。否定しない。尊重する。
減点方式って時代錯誤だと思います。そんな会社、多様性について理解してないとしか私には思えません。
あの子達みんなが本当に輝ける時代はと、眩しいほどの生徒さん達を思い出しながら願うばかりです。(非力)
こんなことぼやいて世の中変わるとは思えませんが、少なくとも私自身は理解して受け入れる思いやりを持ち続けたいです。